食通として知られる作家・池波正太郎氏が著書の中で
「旨くないという日本人は、おそらくあるまい」と記した「とんかつ」。
「とんかつ」は”日常のごちそう“として、日本人に愛され続けてきました。
厚い豚肉に衣をつけ、たっぷりの油で揚げてしっかり中まで火を通す、その調理法は日本人が生み出した技で、今や人気は世界へと広がっています。国境を越えて愛され続ける「TONKATSU」、その奥義を探っていきましょう。

誕生以来「とんかつ」はみんなの大好物でした

誕生から100年を超えた今、「とんかつ」は国境を越えて「素晴らしい!」と評される、日本料理の代表選手となりました。サクサクのかつに、千切りキャベツ、味噌汁、白飯という日本が生んだ最強の組み合わせが、世界中のみんなを笑顔にしています。そんな「とんかつ」がどうやって生まれたか、歴史の扉を開いてみましょう。



試行錯誤を繰り返し 和食「とんかつ」が誕生

 飛鳥時代から1200年、日本人が守ってきた「肉食の禁」。ところが、維新以降、先進諸国の仲間入りを目指す明治政府は、諸外国へのおもてなしの必要性や、人を作るのはまず食から!という意向で西洋料理の普及を推進。明治5年に明治天皇が食したことにより肉食が解禁されると、牛鍋、すき焼きなど、日本人に合った肉料理が登場するように。しかし、「とんかつ」が登場するのはまだ先のことでした。
 明治時代、料理人たちは見よう見まねで西洋料理を作っていました。「とんかつ」の語源となった「コートレット」もそのひとつ。仔牛や羊の骨つき肉にフライの材料をつけて、バターで両面を焼いた「コートレット」は英語名「カットレット」。これがいつしか「カツレツ」と呼ばれるように。明治28年、横浜でフランス料理を学んだ料理人、木田元次郎氏が開店した銀座「煉瓦亭」でも、仔牛のコートレットを提供していました。しかし、バターをたっぷりと使っていたため「脂っぽい」と不評でした。そこで肉を豚肉に変え、江戸時代から日本人が親しんで来た天ぷらの”揚げる“手法を取り入れて誕生したのが、オリジナル料理「ポークカツレツ」だったのです。さらに、「煉瓦亭」では付け合わせを当初の温野菜から、日露戦争で人手を取られたことにより、キャベツのぶつ切りに変更。その後食べやすいようにと千切りに変えました。これぞまさに豚のかつと千切りキャベツが出会った歴史的瞬間!また、デミグラスソースをウスターソースに変え、パンのほかにライスも用意するなど、現在の「とんかつ」の礎を作り上げていきました。
 これが大人気となり、その技法を取り入れた、上野の洋食店「ぽんち軒」の島田信二郎氏が、揚げたかつを切って出し、ご飯と味噌汁を添え、お箸で食べる「とんかつ」を考案。上野や浅草に専門店も次々と開店し、昭和初期のとんかつブームが到来。「とんかつ」は徐々に和食へとシフトしていったのです。



日本中を席巻し、肉食を普及した立役者

 「煉瓦亭」による「ポークカツレツ」の誕生以降、「カツカレー」や「かつ丼」など、カツレツを使ったオリジナル料理が次々に生み出されていきました。この発想の柔らかさ、応用力こそが日本人の素晴らしさとも言えるのではないでしょうか?さらに「ぽんち軒」によって、「とんかつ」が誕生すると、上野や浅草を発信源とし、とんかつ人気は瞬く間に全国に広がっていきました。昭和に入ると、家で油料理をしたくない、という主婦の要望を受け、「とんかつ」は肉屋の店先でも売られるように。
 そしてその人気は今や世界中に広がっています。というのも、油の温度を調整しながら、分厚い肉にしっかり火を通して揚げていく、という技法は外国人にとっては珍しく、難しいと感じるものなのだとか。中はジューシーなのに、外はサクサク!油を洗うようなキャベツや味噌汁、ソースをかけた肉とご飯の抜群の相性。そう、「とんかつ」は日本が誇る和食。さあ、今夜のおかずは「とんかつ」に決まりです!


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